快裏

 
◎形式:小説
◎2017.10.26.Pixiv掲載(雅明二次)※一部改変
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    恋人が身体を重ねてくれないと弟が言った。所謂夜の営みと云う行為をしてくれないことに対して、不安を覚えているようであった。弟はそういう心境になると、若者らしく細身に整えられた眉を横一線に張り、平均より小さな唇をさらに小さく寄せて鼻から息を吹き出す癖がある。その度に縮められた下唇には皺が集まって、乙女の唇のように濃い赤色の飴玉となった。針で突いたらきっと、シロップ入りの飴玉の中身が蕩けて流れ出るのだろう。その様を想像するとへんにおかしくなってきたので、俺はつい、はん、と鼻で笑ってしまった。先程まで十三夜月の形をしていた弟の瞳が、一気に上限の月形に欠けて、俺の方を睨んでくる。横一線であった筈の細身の眉も、二、三ミリメートル程眉間に寄っていた。俺は小さく咳払いをして、緩んだ頰を引き締めたのであったが、まだ弟は俺のことを睨んでいた。その為俺は窓に映った自分の顔を見乍、自らの右頬を抓ったり、爪を立てたりしてみた。目の前では薄い緑か、濃い緑か、黄緑のどれかの木々などが左から右へ流れてゆく。窓枠の上の方から順に薄くなってゆく草木の葉の色の中で、時折赤い花の群が途切れた。この季節になると、近所の公園や歩道脇の花壇でさへ見ることの出来る彼岸花である。それらの景色は普通観賞して然るべきなのであろうけれど、俺は俺自身の表情を整えることに重きを置いていたため、緑や赤の風景は点描画のように俺の目の前を走り去った。それも細かな点描ではない。毛先の尖った、幅の最も広い筆で絵の具をカンヴァスに押し付けただけ、そう云う風景なのであった。俺の頰は噛み込まれたガムのようにどの方向にもよく伸びた。平均程度の大きさをした唇の両端はほんの僅かに下がり、人差し指に触れた水を伸ばして塗ったのみの潤いが白く光って煌めいていた。元より細身ではあるが、弟より毛がかった眉は横一線を保ってある。瞳は十三夜月の形を象り、黒目の輝きも又申し分無い。目尻もクレオパトラの化粧のようにすらりと伸びて、透明な産毛が揃っていた。最後に右目に垂れた前髪を払った。そうしてもう一度弟の方を向いた。弟の目は更に薄く伸びていた。 

 その時俺たちは飯田線に乗っていた。早朝ともあり、俺と弟以外の乗客は居なかった。故に弟もこの手の話を車内で告白することが出来たのだろう、弟は依然俺を睨みつけたまま暫く微動だにしなかった。シロップの垂れてきそうな唇にひびが入っている。よく見ると二、三皮の浮き出ているようであって、今にも剥けてしまいそうだった。浮き出た皮は白く濁った色をして、地の赤色を薄らと感じさせた。 
「悪かったよ。」 
俺は背凭れに寄りかかり乍告げた。ワイン・カラーの高級そうな椅子は、その見た目に反して決して柔らかくは無かった。人が座る際に尻と腿をつける部分が、生地の毛並みの剥げによって薄い褐色に変色している。大体車体も黄土色で、所々の塗装が剥がれて黒くなっていたのだ。椅子だけが劣化していないとなればそれは可笑しな話である。(このような古い車両が態々修繕されるとも思えまい。)座っている間に何度か尻の位置をずらさなければ腰が痛くなってくるような座り心地であった。俺は背凭れに背を預けた後、右腿辺りに突き出ている茶色い肘置きに肘を置いた。そして頬杖をついてもう一度謝罪をする。 
「どうして寝てくれないのか。」 
弟の瞳が、長い睫毛によって覆われる。弟の瞳は曇っている。 
「まだ早いと思っているんじゃないのか。だってまだお前は二十歳になっていないんだぞ。」 
俺は非常に在り来たりな回答を出した。誰にでも言うことのできる軽い助言であった。弟はこれに対して何の反応も見せずに、睫毛で瞳を曇らせたまま更に俯いて腰を動かした。ワイン・カラーの生地の上で、厚切りの太腿がもそもそと動いている。俺はそのことに気がつくと、頬杖をついていない方の手で静かに腿を制止させた。はっとしたように微かに瞬きをした後、弟はごめんと溢して両足を引っ込めた。 

 弟が何処の誰と交際しているのかを俺は知っていた。またそいつがどのような奴であるかもよく分かっていた。弟は、俺の大学時代の友人である雅と恋仲の関係にあった。奴は男である。しかし奴は両性愛の人間であったために、俺の弟の思慕をあっさりと受け入れたのであった。俺はレイと云う女を愛しているために、彼らの関係性を理解することは難しいのだけれど、だからと云って偏見がある訳では無かった。(特に弟のことであるから尚更偏見など感じなかった。) 
 雅には俺以外に親しい人間が居なかったようだが、反対に女や色男の気配はすさまじいものであった。まず学内にて顔を合わせ、女と一緒でない日が無かった。俺と雅はたいてい同じ講義を履修していて、行動を共にすることが多かった。たまたま講義の前に会わずに教室で顔を合わせると、必ず雅の両脇には女が三、四は座っていた。右隣がキャバレーに勤めているような派手な女であるかと思えば、左隣は黒髪の流れる如何にも純粋な女なのである。と思えば黒髪の女の更に左隣には、淡い水色のドレスらしき服装に身を包んだ、ふりふりの可愛らしい女がいる。派手な女の後ろにももう何人か居た。褪せた紫色のパーカーを羽織った、外はねの癖毛の女が身を乗り出して輪に加わっていたり、お世辞にもかわいいとは言えない容姿の女まで奴の話に聞き入っていた。そして雅はそれらの女らにいっさいの差別もしなかった。褪せたパーカーの女とぶすな女がなにごとか発言するたびに、雅のすぐ両隣の女らは顔を顰めていたのだが、雅だけは表情を変えずに振舞っていた。黄土色の机の板に頬杖をついて、笑い乍彼女らと話をしていた。俺は三年もこいつと居るうちに、いつしかこの状況に慣れていったのであったが、在学四年目にして新たな事実を知ることになる。それが奴の両性愛性であった。きっかけは三年次に付き合い始めたレイからの報告であった。 
「あのねえ、篤さんに相談したいことがあるのよ。」 
レイはそう言って、雅が池袋南口のホテルから男と出てくるところを見た、と告げた。安っぽい黄色や橙のまるいネオンの飾る建物が、こちらの出口にはおおいに建っている。そのひとつから雅は、スーツを着た中年の男に連れられて歩いて出てきたと云うのだ。雅は俺と同じくらいの背丈だけれども、それよりも頭ひとつぶんほど背の高い男で、かなりの美形であったとも証言した。目はもうすこしぱっちりでもいいなと思ったけれども、それでも色の落ちた肌は夜の暗闇の中でしっかりと濃く映え、白髪交じりの髪はネオンの光を浴びて艶やかに光っていたと語った。レイはその後二人のあとをこっそりつけたらしいのだが、途中で見失ってしまったようだ。しかしその時点から二時間もしないうちに、今度は美女と共に別のホテルに入って行く雅を目撃したと言うのだ。レイのレポートはこのあたりで終わった。非常に短い報告であったが、その中身はたいへんに密度の濃いものであった。俺は学食に設置されている給水機に足を運ぶと、とりあえず湯を二人分汲んでレイのもとへ戻った。俺の通っていた大学の学食はふたつのブロックに分かれてあって、それだのに給水機は片方のブロックにしか無かった。しかもふたつのブロックを行き来するには一旦中庭を通らなければならなかったので、俺はわざわざ中庭を通って湯を持ってくることにしたのである。途中中庭に転がっていた石ころにつまづいて、転びそうになった。前景姿勢になった時、中庭に生い茂る黄緑の芝生が視界に写った。その中央に、白い小さな花が咲いていた。花びらが五枚、米粒ほどの大きさであった。俺はこの花の名前を知らない。今でも知らない。恐らく雑草だろう。唯俺はこの花のぽつんと咲いているのを見たとき、踏んではいけないのだと観じた。実際俺はこの花の脇を静かに通ってレイのもとに戻った。 
「お湯ありがとう。」 
「なんのこれしき。」 
俺は口角を上げた。女好きの友人が男にまでちょっかいをかけていた、と云う事実を目の当たりにしておきながら意外と俺の心はしずかであった。午後三時、学食を使う生徒もほとんどいなくなる時間帯であり、室内は僅かに声のひびく静けさであった。食券と引き換えに飯を受け取るための窓口の、上部の白い壁にかけられてある時計の硝子がくすんでいる。俺は湯を啜り乍レイを見た。同時に視線で合図めいたことをする。 
「そう、それでねえ、不思議だったのよ。男とホテルから出てきたときの雅ったらね、あれは間違いないわ、女の顔よ。女の顔。それも、いい男に抱かれたときの女の顔。」 
「ははん、どうしてそう言い切れるんだ。」 
「どうしてって、篤さんが聞かないでよ。」 
まじめに聞いてないでしょう、とレイが栗色の眉毛を下げた。俺と同じ、すこし毛がかった眉毛である。どうにも俺はこのころから、他人の話をまじめに聞いていないように思われがちであった。俺はごめんよと言ってレイの栗色の長髪を指で梳いた。レイはそれぎり黙りこんで俯いてしまった。頬紅を刺さない彼女の頬がしぜんな桃色を帯びている。絵具に付けたばかりの絵筆を、ばけつの水にさしこんだときのような色の広がり。俺は橙の卓上に湯呑を置いて席を立つと、軽く周囲を見回した。受け取り口のブラインドはすべてしまっている。不規則にちりばめられた丸テーブルと椅子の組らには、誰も座ってはいない。その更に奥には長方形の木製のテーブルと、何故かキャスターのある椅子が並ぶ。そこには人がちらほらと座っていた。机上の何かを熱心に覗き込んで書き物をしている。課題だろうか。出口の硝子製の自動扉も開く気配がなかった。平たい中庭の芝生が鮮明に見えている。俺は身を乗り出してレイの耳朶に口付けた。栗色の滑らかな長髪を指でどけてから口付けた。離れ際にレイを見たとき、ついにレイは燃え出してしまうのではないかと云うほどに赤くなっていた。林檎病にもひけをとらないかも分からない。俺はふ、と鼻で笑うとすぐにまた腰掛けた。ずりずりといやな音がした。 
  

 車内にて暫しの沈黙が続いた後、俺は漸く次の一手を切り出すことに成功した。それで、お前は今後どうしたいのか。俺の一手などは所詮こんなものである。弟はまたしても何も言わずに、ワイン・カラーの背凭れに背を預けて外の景色を見ていた。 
「次は向市場、向市場です。」 
車内に定期的に流れるアナウンスが、狭い空間に篭って響いた。中部天竜駅からずっと乗っているのに、初めて車掌の声を聞いたような気がする。窓の外は相変わらず緑だらけであったが、此度は点描のようには見えなかった。景色を眺めている弟の様子と交互に見ても、窓の向こうの薄い緑や、濃い緑や、黄緑は一本一本の草であった。にらのようにぴんと張った草や、葉の重みでなだれこみそうな木々が、一本すら漏れずに俺の視界を通り過ぎてゆく。俺の瞳の中ではめまぐるしい文明開化の起こっているようであった。顔の向きを変えぬまま窓から逃れ、背凭れに背を預けると、今度は小汚い灰色の壁が見える。俺は壁についているほこりやしみの数を数えた。その中には眼鏡に付着した汚れも含んでいたかも知れない。弟は未だに外の景色をぼんやりと眺めていた。窓側に向いた斜めの角度が、弟の顰め面の影を濃く魅せた。俺はなにか言わなければと思い、頬杖をつくことをやめて肘置きから肘をおろした。俺の肘の重みで変形したゴム製のカバーが、少しずつ元の形に戻り始めている。 
「ほかの男と寝た。」 
弟は唐突に告白した。気が付くと俺の右手は空中でぴたりと静止していた。掌から五本の指のすべての先端までが、糸を張ったように伸びている。これ以上伸ばしたら攣ってしまうのではないか。肘を軽く曲げて宙に投げ出されたこの右手は、間一髪のところで弟の頬を打たずに済んだ様子であった。俺は口をもぐもぐとさせながら手を下ろすと、再び肘置きに肘を置いた。頬杖はつかなかった。そしてワイン・カラーの、大してやわらかくもない椅子に深く腰掛ける。視界のずっと向こうでは、ドライバーが暗い運転席に立っていた。またアナウンスが流れる。次は水窪、水窪です。俺は一体どのくらい固まっていたのだろうか。 
「ごめんなさい。ほかの、誰かもわからないおじさんが声をかけてきて、悪くないと思ったから。少し白髪が交じっていてまさにおじさんだったけれど、面影が雅に似ていたから、ついて行ったらなんとなく抱かれてしまった。」 
「お前は自分がなにをしたかわかっているのか。」 
俺は弟のその手の事情に関しては大分甘く見てきたつもりであったが、その程度が甘すぎたのであろうか。俺は肘置きの先端を強く握り締め乍弟を見た。ワイン・カラーの椅子の背凭れの上部には、赤と黒のハーリキン・チェック柄のストールが掛けられてある。風などで車体が揺れるたびに、ストールの角もゆらゆらと揺れた。 
 雅は好色な男であったが、弟と付き合い始めてからは女関係や男色の噂がふっつりと消えた。大学で女を取り巻くことも一切なくなり、また、あれ以来雅の尾行を続けていたレイですら何の収穫もないと溢すようにさへなっていた。何かの間違いかとも思ったけれども、よくよく思い出してみれば俺の知る限りでは、正式な付き合いと云うのは雅にとって、うちの弟が初めてであった。しかし弟の扱いに関して俺に相談をしてきたことは一度も無かった。俺としては、常に内にこもりがちな弟に変化が訪れたと云う事実を、実に良いものであると観じていた。そのため雅からの愚痴などがないうちは、互いにうまくやっているのだろうと思っていたと云うのに。俺は爪という爪を、何か硬いもので押し付けられているような感覚になった。全身の十枚の爪が、冷たくて硬い、しかも重量のある物体の下敷きになっている。俺の毛がかった黒い眉が眉間に寄り、額に薄らと皺の寄ることを覚えた。以降車内で明は何ごとも話さなかった。俺は車内奥の運転席を見た。そこへ通じる扉の灰色だけが、傷も色褪せも何もない、銀塊のように見えた。 
「次は小和田、小和田です。」 
車内にアナウンスが流れてから十分ほど過ぎたあとで、電車の速度がゆっくりと落ちてゆく。もう止まるから、降りる準備をしよう。俺がそう言葉をかけると、弟は隣の席に置いておいたウエスト・ポーチを腰に巻き、ハーリキン・チェック柄のストールをしっかりと両腕で抱いて立ち上がった。 
 俺と弟の目の前の扉が、ちょうど駅名の表示されている看板の前で左右に開く。俺はほら、と弟の背中を押して下車した。前を向いても後ろを向いても濃い緑ばかりであった。等間隔に立っている電柱には、大きな葉を携えた蔦さへ巻き付いている。それでも黄色い点字ブロックが敷かれているから、そこまで古い駅でもないと思うのだけれど。 
「こんなところに来たかったのか。どっちに進むんだ。」 
俺は再び弟の背中を押した。板という板のほとんどが黒く変色し、今にも倒壊しそうな木造の無人駅を出ると、山でよく見かけるような案内板を見つけたためである。
    柱には矢印型の薄い板が三本張り付いていた。矢印はそれぞれが別の方向を指していた。板の左右両端が内側に向かって切り取られているものには静岡県と表記されている。素直に左奥を指す矢印の板には、愛知県と表記されている。そしてその逆方面、右奥を指す矢印の板には長野県と表記されていた。どちらに行きたいのか、俺は再びその質問を繰り返した。小和田に行きたいと言い出したのは弟の方だったからである。唯俺もこう云う自然の茂る地に出かけて来るのが好きなので、俺が引っ張っていってもいいと思った。何せ今弟はこんな状態である。しかし弟は然程悩む気配も出さないうちに言葉を発した。 
「兄貴、俺と死んでくれないか。」 
瞬時に全身が凍りつくように感じた。先程から俺の爪を圧迫していたものが更に質量を増し、のしかかってくる。それはついに爪のみに留まらず、俺の足全体や手の甲にまで及んで皮膚をぐうと押した。表皮と、ダイヤモンドよりもずっと柔らかい爪がそいつらを受けとめて潰れそうになっていた。弟の顔面からはいつの間にやら表情が消えている。 
「白髪交じりのおじさんに抱かれたのは一度きりではないんだ。何度か定期的に夜に会っていたんだ、だから連絡先も知っていてね。会う日の時間と場所を決めるためだけのものだったけど。でもね兄貴、聞いて。先週その人から連絡がきたの。もう君とセックスしてあげられなくなったって。それで俺はなんでと聞いたの。そうしたら、そうしたらね、その人なんて答えたとおもう。その人ねえ、HIVに感染してたんだって。最近急激に体調が悪くなり始めて、不安になって病院に行ったらわかったんだって。だから、明君も念のために血液検査をしに行きなさいって。」 
俺は爪先や手の甲に圧を感じ続けたまま、唯突っ立っていることしかできなかった。周囲の濃緑色の木々や蔦が、徐々に点描画へと移ろいでゆくのがわかる。眼鏡をかけているのに、土のうえにころがる石や木くずの形をはっきりととらえられない。俺死ぬんでしょう。そう言って笑った弟は、矢印の板の張り付いている柱をじっと見つめたまま、平均より小さな唇を左右に伸ばした。唇の大きさがやっと平均的な面積に成る。 
 やがて弟は柱から顔をそむけると、腰に巻き付けられた小さなウエストポーチのジッパーを開いて彫刻刀を取り出した。中学生のころに、美術の教室で配られたものだろう。取り出された山形の刃の柄には、剥がれかけてびらびらと渦を作った名前シールが貼ってあった。二年五組、宮本明。商店街の幼馴染らが初めて、全員同じクラスになれた。そう言って明は飛び跳ねて帰って来た。きつい芳香剤の香る玄関にて、明は俺に向かってたいようのような笑みを浮かべていた。それで死ぬつもりだったのか。また、俺はこれを実際に口に出していたのだろうか。 

 検査を受けて、自分がエイズだと知るのが怖い。濃緑色の点描画の中でそう溢した弟に対し、俺は帰ろうと言い出すことが出来なかった。俺は兎角弟に、死ぬ病気ではないと言うことを伝えると、その身を引きずるようにして廃屋の如き無人駅に戻った。割れた空の牛乳瓶や、何十年も前の広告が、黒い壁に張りっぱなしにされてある。せめてその中のひとつでも見ていけたらと思ったのだけれど、結局それらも唯の赤黄の点描画となって全く把握することができなかった。 
「今晩はとりあえず、横浜のどこかでうまいものを食べて、そして泊まろう。」
何でも食おう、鱶鰭でもいいさ。俺はそう告げて弟の腕を引いた。何十分も待って漸く中部天竜に戻る電車が到着した。車内には誰も座っていないワイン・カラーの二人席が、何十個も向かい合わせになって並んでいた。 
  
 三か月が経ち、弟は雅の付き添いで都内の或るクラブハウスに出かけて行った。そこの地下室にて、専門の医者による定期的な性病検査が行われているのだそうだ。結果はたったの十五分で出ると云うので、騒いだ後に気軽に受けに行く若者が多いらしい。検査を終え、弟を我が家に送り届けたあとで雅は、初めて俺に弟に関する話をした。 
 雅は弟から事の発端を聞いたと語った。そして自分が身体を売った男と、弟が性行為をせがんだ男が同一人物であることも分かったと告白した。雅は然程表情を変えずにそれまでを話した。けれども検査結果を聞かされた弟の様子について話していたときの雅は、視線が幾度かふらついて、口調もどこか覚束ないものであった。弟は結果を聞くや否や首を左右に振り、立ち上がったと云う。 
「明は表情ひとつ変えなかったよ。簡易検査板の、細長い白色の部分に浮き出た赤い線を見つけるや否や、満月の形に成った瞳で医者の顔を見つめて言ったのだよ。先生違う、俺エイズじゃないよと。明は同じ言葉を二度繰り返すと、私の手を引いて帰ろうとせがんできた。だから私は今日のところは明を貴様のもとへ帰すことにした。だが近いうちに医療機関に連れて行くつもりでいる。明は私と違い、知識と警戒心を持っていなかったようだからな。その際は私の主治医に担当してもらうようにしてあるから信頼しろ、親にも貴様から話を通しておけ。それでも心配なようであれば、貴様も共に来ると良い。」 
そう言って雅は立ったまま鞄から半透明のケースを取り出し、幾らかの錠剤を飲み込んだ。最中雅の脇に挟まれてあったそのケースが、街灯の光を浴びて白く眩んでいた。 



iBlooD

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