『宮本明』
◎形式:小説
◎2017.06.07 Pixiv掲載
彩り深い花々に囲まれ、その人は眠っているようであった。ガーベラや百合、薔薇やカーネイションなど、種類も様々であり、色も豊かである。実はこの場に用意された花の中には菊もあったのだが、この人の周りに菊は無い。大勢の花のひとつひとつからはくすぐったくもない程度の匂いが漂ってきて、俺はしゅんと鼻を啜った。だが、何だかあまりいい香りではないと感じて一瞬だけ呼吸を止めた。そのせいで僅かに詰まった息が、場違いな音を立ててふしゅう、と二つの穴から漏れ出た。
「まだお花の方が残っておりますので、どうかもっと彩ってあげてください。」
根の優しい、しかしはっきりとした声により、俺は棺から目を離した。次に顔を上げた。棺の周囲は大勢の参列者で溢れかえっているため、簡単に声の主を見つけることができずに、俺は人の列を掻き分けた。そうして漸く見つけた声の主の持つ盆に残っていたのは、濃い赤色の花であった。最後の一束である。俺はそれをこの人の傷の終着点に添えたくて、その一束に手を伸ばした。
しかしその際、別の手が俺のものにぶつかった。咄嗟のことであったために、条件反射のように俺は手を引っ込める。するとそいつはしわがれた声で、ああ、すみませんと呟いた。それから表情を一切変えずに頭を軽く下げ、俺に最後の一束を譲った。こちらこそすみません。俺もそう告げて若干開いていた唇を結びなおし、一束を、声の主の持つ盆から掬い取った。
まるで眠っているようであった。およそ一週間前に固く閉じられたこの人の瞳は、本当はとても美しい焦げ茶色をしていて、常に俺のひとつもふたつも先を見ていた。昔からそうなのだ、いや、もっと先であったかも知れない。今はもう蓋をされているので見ることは出来ないけれども、この人の確かな視線を、俺は未だによく憶えている。
唇は微かに赤かった。女性ではないためそこまで色づける必要はないのだろうけど、それでも、男性にしては赤すぎると思われる濃さに感じた。肌の色は黄がかっていた。しわになど目が行かぬほどに、そうだなあ、ちょうどばななの皮と身を足して二で割ったような色味である。けれども一方で、しみや黒子は大分目立っていた。この人は出会った頃から、男のわりには肌が綺麗でいて、それは歳を重ねても五十代辺りまでは変わりが無かったのであったが、六十代に差し掛かった辺りからは急に肌が年相応の成長を見せるようになっていた。(本当に、エリザベート・バートリが男であればこのような感じなのではないかというくらいに、肌が綺麗だったので、俺は少し残念であった。)そんなしみや黒子は、この人の最大の特徴である、額から顎にかけての大きな傷を中心として広がっている。故に大層目立つのだ。ただ俺はこの人のしみや黒子を目にすると、いや、注視すると忽ち身体が動かなくなってしまう。頭の天辺から指の先まで、まるで腓返りを起こした時のようにつうんとするのだ。今もその感覚が全身を襲い、つうんと引っ張り込まれそうになる。ひりひりと余韻を残すようなことばかりしてくれる。
加えて目立つものと云えば、もうひとつある。髭である。この人の無精髭は最後まで凛々しく整えられてあった。否、敢えて真実を言うのであれば、俺が納棺師の男に、昔のように剃ってくれないかと頼んだからなのであるが。唯それでも、その無精髭は出会った頃とは違い、灰や白に塗れて弱々しく、黄色い肌にはりついていた。勝っちゃん、とうとう俺もあいつのようになってしまったよ、と云う、何時だかこの人が縁側で零した一言が、一度だけきんきんと再生される。この人は少し嫌そうに言っていた感じがしたけれど、実際のところ俺は特に何とも思わなかった。むしろ綺麗であるとすら思った。
俺は先程の一束を、そっと傷の終わる淵に添え、この人の白髪を撫でた。かつて年頃の男子らしく染まっていた、或いは、地毛の茶髪ももうこの様な姿である。一本ずつが細く白く、時折灰であり、薄い。その様は見ての通りだ、今やこの人は、どこにでもいる普通のおじいさんなのである。俺はそんな風に考え乍添えた一束を整えていると、向かいから、お父さん、と呼ぶ声が聞こえてきた。
「お父さん、お父さん。」
俺は一瞬耳を疑ったが、いや、この人に子どもはいなかったはずである。もしや例の島に居た時に実はできていたのではないかと思い、つい顔を上げれば、お父さんと呼んでいた者は、先程俺に一束を譲ってくれた男であった。歳は大体俺と同じ位に見えた、きっと七十代かそこらなのだろう。そいつはしわがれた声を更に震わせては、引き続き何度もお父さん、と呼んでいた。そうして棺の中に手を差し入れ、この人の無き右腕を撫でていた。俺はまた人波を掻き分けてそいつの隣に渡ると、そっと花たちを動かして、無言でその右腕を隠した。
「それでは御蓋を閉めさせていただきますので、碑を持たれる方など、代表者でない方はお棺のあとに続いて下さい。」
俺はこの人の遺影を持ち、棺の前に立った。こう云う時、通常はもう身内などで段取りや役割が決められてあるはずなのだが、俺はこの人の身内や知人の行方を知らない。生前に尋ねてみたことがあったし、俺が身の上話をする機会も大いにあったものだが、この人は自分の事に関しては何も話してはくれなかった。否ほろりと零したこともあったかも分からないが、俺の記憶にこの人の人間関係における話は存在しない。故に募りようがなく、俺がある意味暴挙に出たのであった。漫画や映画でしかあり得ないと、誰もがそう思っていた奇想天外がこの国を襲ったとは言え、流石に電話は通じるようになっていたし、インターネットもそこそこに使える環境は整備されてきていた。そういった意味では文明の利器には常に感謝しかあるまい。そんなこんなであるから本当に行き当たりばったりな式なのである。いいや本当に、場所と職人を見つけることが出来ただけ、まだ良かったものだ。
俺はどうして良いかわからなかったのでとりあえず碑を受け取り、その場で立往生した。流石に一人で二つを持つ事は出来ないので、どうしようかと思い、辺りをいっぺん見渡す。皆その場で幾度か足踏みをし、前に出たそうに上半身を倒しては引っ込め、を繰り返していた。きっと遠慮しているのだろうけれど、俺は時折ちらちらと視線を逸らし乍その集団を絶えず見つめた。集団の中には本当にいろいろの人が居た。或る女は、棺の中のこの人と同じくらいに年老いて見えるのに、妙な色気と黒らしい、又は灰がかった雰囲気を発しているように感じた。髪は黒くしなしなと垂れていて、後ろで束ねられた先の方は、くるんと僅かに巻いてある。唇は厚く、やはり歳のわりに色気の漂う獣の様な老人であった。この女の人は一体誰なのだろう。この人とどの様な関わりがあったのだろう。また或る男は、折り畳むことのできる写真立てを大切そうに抱え、それをじっと棺の方に向けていた。その写真立てのフレームには、どちらにも写真が入れてあった。特に右側のものは若い男女の写真であった。女は艶やかなセミロングの髪の毛の持ち主で、腹が大きく突き出ている。と言っても太っているのではなく、妊娠しているような突き出方であって、隣の男がその腹に手を置いていた。男の方はニットの帽子を被っていた。帽子から溢れる長髪も、これまた女の様に肩まで伸びてあり、口髭などが特徴的である。大分古い写真に見えた。
そう云えば俺も、古い写真を一枚持っている。インスタント・カメラで撮られたと思われる、画質の悪い思い出の紙切れ、この人の写っている写真である。恐らく、西日を浴びてきらきらと光っていたのであろう、何処かの海辺にて、この人は笑っていた。更にこの人の横では、目鼻立ちのはっきりとした、短髪のセーラー服の少女と、眼鏡を掛けた如何にも頭の良さそうな美男子が、楽しげに頰を緩ませていた。写真の端々は所々に切れて、折り目も沢山付いていたけれど、三人の表情だけは今でも窺い知れる。この男女はこの人の親友なのだろうか、或いは単なるクラスメイト等なのだろうか、一体この人とどんな関係にあったのだろう。俺は何しろこの人の人間関係について殆ど知る事が無いので、似た様な顔つきなど居れば聞いてみたいと思ったのだが、会場にこの男女らしき老人を見つけることができなかった。
そうしてどの位立往生してしまったのか、しまった、考えごとが過ぎたと気が付いた頃でさへ、やはり誰も碑の受け取りについて名乗り出ないのかと最早呆れてしまっていたのであったが、又聞き覚えのあるしわがれた声が俺に近付いて来た。
「あのう、もし私でよろしければ、この人の碑を持たせて下さい。」
「嗚呼、あなたですか、先程は最後の一束を譲って頂いて本当にありがとうございます。是非、是非お願い致します。私は山本勝次と申す者でありまして、あの失礼ですが、あなたは何方さんでしたっけ。」
「ああこれは失敬、私の名は新田翔でございます。本日は参列をお認め頂き、誠にありがとうございます。」
嗚呼確かにそんな名前もあったかなあと、俺の頭の後ろ辺りが擽られる。
「このお方にはですね、いろいろお世話になったんです、それこそ日本が大変なことになってしまってすぐの頃のことです。父の手助けをしてくださいましたし、私の元を去る時も、しっかりと父の形見のコオトを羽織って行って下さったんですよ。茶色がかって古臭いのに。ですから、私にこの人の碑を持たせて下さいませ。」
「もちろんですとも。」
俺は少々あれと思う所を見つけたが、取り敢えず知らないふりをして碑をそいつに渡した。嗚呼確かにそう云えば、この人は愛用していたコオトについて、貰い物であると言っていた気がする。成る程納得が行った。
それから俺とそいつは並んで棺の前を歩いた。ゆっくりとはしていないが、決して速すぎもしない足取りで一歩一歩コンクリートの地面を踏みしめた。会場を抜けて一旦外に出ると、きつい日差しがシャワーの様に降り注ぎ、東京であるとは思えない程に澄んだ空気が肺に流れ込む。初夏の風が老いぼれたしわしわの肌を掠めてゆく。むうんとした、線香独特の残り香も、もうすぐ使い物にならなくなりそうな鼻を通り抜けた。そういやあ、はげの時にも、この人には同じ香りが漂っていた。
告別室に全員は入りきらなかった。朝、或いは夕の満員電車に乗客を押し込む駅員の如く、何とか入れるだけ入れてみようと試みたのだが、結局全体の五分の二程度しか収まりきらなかった。俺とそいつはまた先頭に移動して来て、この人の遺影をそっと台に置いた。それから俺は、
「あの、すみませんが。先程棺に入れ忘れてしまったものがございまして、入れたいのですが。」
と、近くに立っていたスタッフに声を掛けた。俺は先程の写真をポケットの中から取り出し、丁寧に頭を下げる。彼は特別ですよ、と棺にそれを入れさせてくれた。
俺は腕を伸ばして、写真をそっとこの人の胸元に添えた。俺の腕の差し入れられる程度にしか開いていない、棺の隙間から覗くこの人は、やはり眠っている様である。そうして蓋が完全に閉められるまで、俺はずっとこの人の寝顔を黙ってじっと見つめていた。すぐに棺は何やら厳つい機械の上に乗せられ、担当の者が取っ手を回し、棺はゆっくりと鉄の台の上に移って行く。担当が脱帽し、何やら申して頭を下げる。皆も頭を下げる。俺は土下座をする。同時に唱和される経の合間で、エレベーターの様な扉が閉まった。
「まるで笑っているみたいでしたね、あの人。」
火葬が終わるまでの会食の席にて、翔と名乗った者と隣り合わせになった際に、そいつはそのように語りかけた。俺も確かにそうだと思った。あの人が六十代に差し掛かってからは、刀を振る運動も余り出来なくなってしまって落ち込んでいたために、笑っている顔なんか大分久々に見た気がした。然も俺の知らない笑い方である。あの人と出会った当初から、そりゃあ笑った顔くらいは見たことがあったけれども、その笑いは何となく良いものではないということに俺は察しがついていた。否、まあ見方によっては良いものなのであろうが、先程の様に、緩やかなものではなかった。とは云え刀を振るう運動が出来ていた時は、少しばかり先程の笑みに近くあった感じもする。
「そう云えば勝次さんは、何故あの方とお知り合いになったのですか。」
翔さんが此方に顔を向けて、もう聞き慣れたしわしわ声で問い掛ける。
「嗚呼、それが偶々の出会いなんですよ。自分で言うのも何なんですけどね、私の母親は物凄く美人でしてね。本当に映画のように誰もが狙うマドンナだったんですよ、ですから日本があんなことになってしまってからは、吸血鬼化した母親のファンたちが家に押し寄せて、私の母親を嬲ったのです。毎日辱しめに来たのです。私は当時小学生でした、何も出来ませんでした。けれどもある時勇気を出したんです、こんな私も餓鬼なりに、馬鹿振り絞ったんですよ。あっさりやられましたけどね。でもその時丁度あの人が家の前を通りかかったお陰で、私も母親も、一旦は助かったのです。それからまあいろいろとありまして、共に東京を目指しておりました。」
俺の箸はいつの間にか止まっていた。翔さんの箸も止まっていた。それからきっと、時間も止まってしまっていた。俺は今でも思い出すことができる、あの人に無理にくっ付いて東京を目指し、母親の面倒も見てもらい、共に怪異に挑んだ日々のことは例え頭を患っても忘れる事など出来やしない。一番の印象は、そうそう、すすき野原にて遭遇した、女好きの化け物か。母親の月経の匂いに反応して、大分追い回されたことは痛い思い出である。そいつはロープウェイまで追いかけて来て、地上何十メートルもある高さで宙吊りになった時は流石に死を覚悟したものだった。ただケーブルカーの先端に丸太を固定して吸血鬼らを一掃する作戦は、うまくいったと思う。言わずもがな作戦のルーツは俺である、ここも忘れてはならない。
気が付けば俺はそんなことをぺらぺらと喋っていた。翔さんは大きく相槌を打ち乍懸命に聞いてくれていた。そんなことであるから二人してろくに料理を食べることが出来なかった。最中、休憩室にスタッフが入室する。
「火葬が無事終わりましたので、只今より納骨室へ移ります。皆様、お続き下さい。」
また俺たちは先頭に立った。納骨室では、先の告別室に収まることの出来なかった人たちを優先に整列させた。室内の正面に掛けられたカーテンの奥から、初老の男性が台車を押し歩いて来る。台の上には銀色のトレイが二つ乗せられてあった。
「これがあの人。」
翔さんが、今度はお父さん、と言わずにそう呟いているのが聞こえた。俺も、これがあの人なのかと、こんな白くてころころとしたものがあの人であったのかと、素直に思うことが出来なくて後退ってしまう。しかも唯白くころついているだけではない。その中身は茶がかった黄緑色で、まるであの人のコオトの様である。重さは感じられなかった。黄緑色は蜂の巣のようにすかすかであった。
「では皆様、四列にお並びになって貰って、二人で一つのお骨を、こちらの骨壷にお納めください。しかしですね、こうも人数が多いと全員に回すことは出来かねますので、特に関わりの深かった方々のみでの作業とさせて頂きます。ご了承下さいませ。」
先ず俺と翔さんが並び、その右には、例の二人が進み出た。妙に色気のある老女と、それに比べたら未だ若さのある、写真立ての男であった。二人は此方に丁寧に頭を下げたが、どうも翔さんと老女の間には、他人同士の空気感と云うものが感じられなかった。と云うのも翔さんがその老女の腰に手を当て、身体を支えてやり乍何やら親しげに話していたからである。その様は親子のようにも見え、俺は哀れな姿になってしまった自分の母親のことを思い出していた。その瞬間、翔さんと自分の姿が重なる感覚を覚えた。俺は目の前の人の腰に手を当て、時には優しく撫ってやり、何もしていない方の手は何かが起きた時用に常に空けておく。それから、やわらかに声をかける。何だって良い、わかっているよと怒鳴られるようなことだって良い。何でも良いから何か声をかけるのだ。あたたかく、労わる様にかけるのだ。ほうら、明。しかし何故だろう、翔さんに俺が重なっていても、翔さんの支えている老女に重なるものは俺の母親ではなかった。
俺は、出会った時から既に失われていたあの人の右腕を、労わる様に撫でていた。ほうら明、お風呂から上がったのだからこれを付けなければならないよ。ほうら明、そろそろ夕飯の時間だから、此方へ来て一緒に食べよう、ほら、俺の腕を掴んで、俺が支えているから大丈夫だよ。明、今日は図書館へ行こう。物語を書くのが好きだったよな、たくさん資料を集めに行こう。俺も一緒に探すから。一緒に海へ行こう、山登りにも行こう、美術館に行こう、動物園にも、水族館にも、どこへでも連れて行くから。明のしたいことは、俺が何でも叶えるから。
俺は黙って翔さんと遺骨を壺に収めた。食事の席で箸渡しの行為を禁ずるのは、こういうことがあって縁起が悪いのだと初めて思いついた。非常に言い知れぬ感情であった。こうして一列、また一列と過ぎて行き、代表の者全てが壺に遺骨を収め終わると、皆一斉に骨壷の周りに集結した。
終始無言である。誰一人何も言わず、あの人であったものの収まる壺を見つめているのだろう。それでも時折鼻を啜ったり嗚咽を飲み込んだりする音が混じって、俺の膝は折れそうになる。そして遂に折れてしまった、スタッフのある一言の所為で俺は、一体如何していれば良かった?
「火葬の際に不思議なことが起きたようでしてね、山本様の入れて差し上げられたこの写真が、何故か燃え残ってしまったんですよ。」
スタッフは一枚の古ぼけた写真を俺の前に示した。確かに俺の入れた写真であった。あの人と、セーラー服の短髪の少女と、眼鏡の美男子の写っている、例の写真だ。
「まさか。だってこれ紙でしょうが。」
腰を抜かしたらしい翔の声が遠くで聞こえる。如何しますか、と云う別の声も聞こえる。写真の中で笑っているあの人をもう一度見て、俺は一体どうしたら?しかしそんな風に彷徨う俺に、隣の男が軸を通した。言わずもがな翔さんである。
「入れてあげてください。」
とても力強い声であった。曇りのない言葉であった。彼は例の写真をじっと見つめたまま、唯入れてあげてくださいとだけ伝えていた。
俺はとうとう膝から崩れ落ちてしまった。おお、おお、こんな姿になってしまった。あの人が、こんな姿に、こんな場所に。堪らなくなって滲んだ涙が、あの人に引っ叩かれて怒られるのではないかと云う程にどうどうと溢れる。嗚呼こんなことになってしまった、それでも、それでもこれはあの人なのだ。あの人でしかないのだ。
「おお、ごめんよ、ねえ。狭いだろう、そんなところは苦しいでしょう。ごめんね、ごめんなさい。」
「勝次さん、もう涙を唆るようなことは。」
それでも俺は泣き続けた。大理石の煌めく床に額を付けて、子どもが駄々を捏ねる様に泣いた。俺は結局泣くこと以外にあの人にしてやれたことなど一つも無かったのだと思い知った。
その後に、あの人の入っている壺は俺が持つこととなった。十分程前に呼んでおいたタクシーが到着したことを確認し、遺影と碑を持った翔さんと共に車内に乗り込む。車内は清潔感に満ちてあってその匂いも爽やかなそれであったが、乗り込んで暫くすると、車内は鼻腔に篭るような煙たい臭いでいっぱいになった。
「もう帰ろう。今日から翔さんも暫く一緒に居てくれるそうだから、寂しくないよ。」
と話しかける俺に対する返答は、どうやら車内の臭いに紛れ、消えてしまったらしい。
『宮本明』 了
0コメント